仙台四郎について

「吉兆」占う白痴男、人知を超えた能力

その男は江戸時代末期の仙台に、鉄砲職人の子として生まれました。生誕地は宮城県仙台市北一番丁。生家の近くに火の見櫓があり、その地区全体が櫓下(やぐらした)と言われたことから、彼は名の四郎をつけて櫓下四郎と呼ばれたそうです。

でっぷりとした肥大漢で、年中ドテラと縞の半纏という出で立ち。汚い身なりはしていなかったものの、生来の白痴で、いつも両手を組んで懐に入れ、貰い物を入れる大きな袋を首にかけ胸にぶら下げて、ニコニコと愛嬌をふりまきながら市中を徘徊していました。四郎馬鹿という通称も一般的でした。

言葉はほとんど話せず、時折「バアヤン」と発するだけ。芝居の真似をしようとする時でも言葉ではなく、ただ手足を動かすだけだったそうです。「バアヤン」と言うのは、藩に納める鉄砲を製作する御鉄砲屋方職人であった実父の仕事の体面上、幼少時から家より離され祖母の手で育てられたからと考える説があります。

社会の混乱期に人々が欲した「生き神様」

不思議なことに四郎が立ち寄る店は、必ず大入り満員の繁盛となり、いくら手招きして呼んでも彼が見向きもしない店は傾いたり潰れたりしていったといいます。

「彼は飄々として歩き、よほど気が向かないと人家になど入らない。所が一度、気が向いて彼が入った店、特に料理屋、旅館、水商売の店だったら、その後、必ず大繁盛したので、逐々、彼は神様扱ひされ、彼の稀による先々は上を下への大騒ぎで彼をもてなすようになった」(※「東北六県下に於ける広告宣伝の研究」羽曽健三、昭和24年)。

前もってその店やその主人の運命の盛衰を知り行動で示すかのような、人知を超える能力についてのエピソードが街に広まるにつれ、彼への注目度、出現への渇望は高まっていきました。死後に福の神となったのではなく、生きながらにしてすでに福の神とされ霊験をあがめられたのです。

江戸時代に旅館街であった国分町界隈は明治2年頃から、戊辰戦争後に進駐した官軍を上得意とする遊郭となり、その周辺も繁華街となっていきました。四郎をもてはやしたこの界隈の明治10~20年代にかけては、ちょうど新興の繁華勢力を巻き込んで発展した文化的大変動の時代で、混乱の世相のなかでかすかな「福」「吉兆」でさえも逃さずつかみ安寧が欲しい、という庶民の心理状態を、このひとりの白痴男が表徴していたのかも知れません。

やがて、知事や市長の名前は知らなくとも四郎を知らない者はいないというほどの、仙台一の名物男となります。

写真技術の大衆化が広めた商売繁盛信仰

また四郎は、仙台市内のみならず近県にまで出没していたという当時の新聞記事もあります。明治20年に東北本線は上野-仙台間が開通しますが、停車場で知り合いを見ると乗車をせがみ、もらった切符で白石や白河などにも放浪、時には山形の花柳界でももてなされたそうです。

明治35年、彼は推定47歳で福島県須賀川で亡くなったと言われています。しかしその状況について何も記録がありません。肉体と消息が風のように消え去ってしばらくした明治の終わりか大正期のはじめ頃、仙台市にあった千葉写真館でただ1枚残されていた四郎の写真をもとに写真絵葉書が製作され、複製、配布されるようになりました。その時に定まったのが「仙台四郎」の呼称です。

当時まだ高価だった写真技術が日本の社会一般に広まる流れのなかで、福の神の肖像も旧来の布袋尊のような絵ではなく、この新しいメディアと組み合わせられ、常に生活感のある神様として流行したのです。

仙台市内の繁華街に位置する三瀧山不動院。仙台四郎を祀っている。

これまで何年かに一度ずつ、四郎ブームは繰り返されてきました。表情が少し異なるいくつかの肖像も出回っていますが、いずれもオリジナルの写真にその時々の製作者が手を加えたもののようです。今では仙台四郎像は仙台商圏に限らず、東北から北関東にかけての地域で多くの商店・企業などに掲げられています。

  

※この記事は、仙台四郎についての希少な論考書のひとつ『不思議な福の神「仙台四郎」の解明 ~その実在と世界の分析~ 』(大沢忍、近代文藝社、1994年初版)を引用し再構成しています。

※写真提供 : 宮城県観光課